• 吉本ばなな連載
    『和みの想い出』
    第6回

    2020.07.10

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    特訓

    大学生のとき、私は茶道部に属していた。
    今でも抹茶なら味は完璧、点て方は体が覚えている。
    お手前はちょっと自信がない、いや、全然かも。
    「水をひしゃくで汲もうとすると水差しの蓋が開いてない」という「茶道初心者あるある」を卒業近くまでやっていたくらいだから。
    そういうわけで私はてんでだめな生徒で、竹筒に入った茶杓が出てこなくなってぶんぶん振り回したり、お茶会でおじいさんより先におじいさんの隣の人に順番だからと素直にお茶を出したらそのおじいさんが実は偉い人で先生にすごく怒られたり、にじり口で頭をぶつけたり、ドロドロしたお濃茶を隣の人と同じ器で飲んでオエっとなったり、とにかく向いていなかった。

    「夏合宿、久しぶりにできたボーイフレンドとお泊まりできるのね」と思ったが、様子は全く違っていた。
    その合宿は運動部の男の夏合宿で使うような安宿で行われ、スケジュールを見たら親睦会や宴会などほぼなく、ただひたすらにお手前。宿に合わせたのかのように運動部仕様。くりかえしすぎて寝てもお点前の夢を見た。

    途中でなぜか、お茶界(あえて流派を秘す)においてものすごくえらいご夫妻が立ち寄った。ものすごい外車、豹柄を着てキンキラキンのバッグを持った奥様と、どう考えてもいつも肉をたらふく食べている体型のご主人。お金持ちの実業家という感じの見た目でわびとかさびとか一切なかった。
    しかし、大人の世界のすごさを垣間見たのは、そのでっぷりした黒光りのおじさまが、着物になってお手前を始めたらやっぱりすばらしかったのである。切れがありつつ完璧に静かな、流れるような美しい所作。トップに立つというのはこういうことなのかとしみじみ感心した。

    彼氏と抜け出すひまもなく、いっしょのチームに入るのが精一杯な退屈でつまらない合宿だと最初は思っていたが、連続してひとり10回くらいお手前をしたり、時間を計ってむだな動きや速すぎる動きを話し合ったりしているうちに恋愛などすっかり忘れ、突然にお手前が楽しくなってきた。
    それまで何回も耳にたこができるほどに聞いていた「お点前の動きは合理的で全くむだがない」という言葉が突然に腑に落ちた。その前までは「お湯を沸かして、お茶を入れて、茶筅でかきまぜる、ただそれだけのほうがおいしくできるに決まってるではないか」と思っていた。もちろんその考えにも一理あるのだが。

    まだ電気ポットやコンロやIHヒーターがなかった頃、湧き水を汲んできて、炭火でそれをゆっくりと沸かし、いい温度で点てたお茶を、季節のお菓子をいただいたあとに、すばらしい器でさっと飲む。見渡すと主人が大切に整えたしつらえがあり、庭が見える。
    そういったもてなしがどれほど豊かだったのか、集中してお点前をしてたら、ふっと昔の茶人の気持ちがリアルに見えてきたのである。
    ああ、この感覚が茶道というものなのかと思った。ほとんど全て忘れてしまったが、あの瞬間だけはまだ心に残っている。

    吉本ばなな
    1964年東京都出身。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞し作家デビューを果たすと、以後数々のヒット作を発表。諸作品は海外30数ヶ国以上で翻訳、出版されており、国内に留まらず海外からも高い人気を集めている。近著に『切なくそして幸せな、タピオカの夢』『吹上奇譚 第二話 どんぶり』など。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
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