吉本ばなな連載『和みの想い出』第1回
2020.02.14 COLUMN
それはとても暑い季節だった。
炎天下を歩いて島を巡るのはちょっとたいへんだなと思うような。
でも、せっかく行ったのだし、停めるところには苦労するけれど車も借りたし、空と海は真っ青で景色は最高に美しいし、巡ってみようとがんばったある1日のことだった。
私は直島というところにいて、様々なアート作品を巡っていた。
そして安藤忠雄さんの建築のすばらしさを学んでいた。
一般の人の住宅としてはかなり住みにくいであろうあのセンスが、公の建物になると作品の全てに拮抗するもうひとつの作品になる。
そのセンスのすごさに感動して打ちのめされていた。
そしてもうひとつ、内藤礼さんの作った静かな美しい空間を感じたことによって、心は澄み渡っていた。
アートを巡る道の途中の路地裏で、ひとりのおじいさんに出会った。
元漁師だというおじいさんは、家の前に船の浮きを飾っていた。そして浮きにまみれるようにパッションフルーツの花が咲き乱れていた。
おじいさんと話しながら、これもひとつのアートなのだなと心から思っていた。
アートとは、世界の中に潜む美に各々が気づくことなのだと。
私の家族と男の友人ひとりでの旅だったが、それぞれちょっとずつ違うコースを巡っていたので、売店のあるラウンジという建物で待ち合わせをした。
へとへとで、喉が渇いて、そこに売っていた冷たいオリーブ茶を買った。
あまりのおいしさに2本飲み干してしまった。ほどよい苦み、わずかな甘み、冷たさ。全てがそのときの渇きに最適だった。飲むと元気が湧いてくるのがわかった。生命に直結した飲みものだと感じた。
友人は別の飲みものを買おうとしていたのだけれど、私はオリーブ茶を勧めた。
「オリーブはこのあたりの特産で、オリーブのエキスには体力を回復させる力があるんだって。オリーブの絵が書いてあるかわいいガラスの容れものは持って帰って家で使えるんだよ」
彼はオリーブ茶を買って飲み、おいしい、こんなにおいしいとは思わなかった!と喜んだ。
私たちは夕方に大竹伸朗さんの作った奇妙な銭湯に行き、近所のかわいいお店でビールを飲んで涼み、写真を撮り合い、笑い合い、幸せな1日を終えた。夕方になると涼しくなるあの島のきれいな空気を今でも思い出せる。
それからたった2年で、彼は心臓の発作を起こしてこの世を去った。
お母さんから「私たちが外出しているあいだに亡くなっていて、帰ってきたらソファーで仰向けに寝ていたの。寝ているかと思ったんだけれどね、ほんとうにきれいな死に顔でした」と涙声のお電話をいただいた。
あの日、照りつける陽射しの中で、うすい緑色と茶色が混じった透明なとても冷たいお茶を、いっしょに飲んでよかった、そう思った。
すごく親しい人ではなかった、縁があって数回そのあたりを旅しただけの人。それでもやはり彼のいた世界といない世界はこんなにも違う。
あのカップはまだ彼とご両親の住んでいた家にあるのだろうか。
吉本ばなな
1964年東京都出身。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞し作家デビューを果たすと、以後数々のヒット作を発表。諸作品は海外30数ヶ国以上で翻訳、出版されており、国内に留まらず海外からも高い人気を集めている。近著に『切なくそして幸せな、タピオカの夢』『吹上奇譚 第二話 どんぶり』など。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
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