吉本ばなな連載『和みの想い出』第1回
2020.02.14 COLUMN
スペシャルティコーヒーが流行っているけれど、きっと流通のつごうで急に新鮮な豆が手に入れやすくなったからなんだろう。
日本のコーヒーがほぼ深煎り一択だった時代が終わったとも言える。
お茶もこの順番で豊かになった日々がかつてあった。今は阿波の発酵番茶とかカチャマイ茶とか、とても珍しいお茶が手に入る。その点ではとてもいい時代だ。
それでも、生産地の気候の中で味わうのとは全く違う。台北の近くの猫空の山の中で飲んだ高山茶とか、アルゼンチンで飲んだ濃いマテ茶を日本では決して再現できないように。
おかげで街中でも自家焙煎の、若い人たちがやっている意欲的なコーヒー豆の店をたくさん見かける。
しかしたいていムラがあったり、豆の選別が徹底していなかったりして味が安定していない。
そういう人たちの気持ちはよくわかる。自分が焼いた豆は愛おしくておいしく感じるに決まっている。豆の買いつけなどに行っていたらなおさらだ。
でもたいていの人たちが「正直な感想を聞かせてください」と言われて、正直に言うとものすごく怒る。
怒るなら聞かないでほしいな、といつも思う。
石垣島に、広々としたカフェと雑貨の店がある。いわゆるセレクトショップなのだがすごくセンスがいい。アウトドアよりで、色も形も地味かつ絶妙で、オリジナルTシャツは丈夫な生地でできていて、大好きなお店だ。
ある日、石垣島で仕事をした後、私とアシスタントはそこに立ち寄り、それまで石垣の自然の中にいたぶん都会のセンスが嬉しくて(東京でもなかなか売ってないようなすばらしいものがずらっと並んでいるから)、大はしゃぎしながら服など選び、暑い午後だったのにますます熱くなり、疲れてしまった。
店の美しい若奥さんが「うちの夫はコーヒーにはほんとうにうるさくて、最近やっと私が淹れるの認めてもらえたんです。飲まれますか?」と言った。暑かったからアイスコーヒーをお願いした。彼女はとてもていねいに時間をかけて、でも器用な手つきでコーヒーを淹れた。そしてふんだんな氷で冷やしたそれを、小さなきれいなガラスのコップに入れて出してくれた。
ごくごく飲みたいくらいに喉が渇いていたのに、あまりにもおいしかったからびっくりして、ちびちびと大切に飲んだ。
冷たさ、苦味、カフェインの力。全てが完璧だった。
店の外は石垣島の焼けたアスファルト。電気をやたらに煌々とつけていないお店なので、景色が強い光で真っ白に飛んでまぶしく見える。
自分は旅をしていて、なかなか来られないところにいて、ふだん会えない人と話して、その人が淹れたおいしいアイスコーヒーを飲んでいるんだと実感した。
アシスタントはお母さんを亡くしたばかりでしょんぼりしていたけれど、この体験が、青い海や砂浜と同じくらいに彼女を優しく癒してくれるといいなあと願った。そういうことが心の薬になるときがあるから。
吉本ばなな
1964年東京都出身。1987年『キッチン』で海燕新人文学賞を受賞し作家デビューを果たすと、以後数々のヒット作を発表。諸作品は海外30数ヶ国以上で翻訳、出版されており、国内に留まらず海外からも高い人気を集めている。近著に『切なくそして幸せな、タピオカの夢』『吹上奇譚 第二話 どんぶり』など。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。最新刊『吹上奇譚 第三話 ざしきわらし』が10月22日に発売。
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